日本の歴史は、原始、古代、中世、近世、近代、現代といった大まかな時代区分がなされることも多いものの、明確な境界は専門家によってもバラバラです。
特に、原始時代から古代へと移り変わろうとしていた飛鳥時代や奈良時代には、美術や政治、経済などの基準が重なり合っています。
美術史でいえば飛鳥時代や白鳳時代、天平時代と呼ばれる時代は、政治史においては奈良時代とも重なっているのです。
そんな飛鳥時代と奈良時代の違いや、時代区分の基準などをご紹介します。
飛鳥時代と奈良時代は、どのくらいの時期なのか?
日本の古代にあたる飛鳥時代や奈良時代は、それぞれ西暦でいえば、西暦592年~710年と710年~794年の時代区分が一般的です。
飛鳥時代は、今の奈良県明日香村付近にあたる「飛鳥」の地に都が置かれ、崇峻天皇から推古天皇までの時期にあたります。
一方、奈良時代は、710年に元明天皇が平城京へと遷都し、桓武天皇によって平安京に都が移されるまでの84年間とされています。
いずれの時代も、天皇に権力を集中させた国家体制の構築を目指した点は似ていますが、大宝律令の存在が最も大きな違いとなっています。
つまり、律令国家体制となった奈良時代を生み出したのが、飛鳥時代といえそうです。
大宝律令がもたらした飛鳥時代と奈良時代の違いは?
豪族らの影響力が強くなり、反乱や豪族同士の争いが起こる中、蘇我馬子が台頭したため、推古天皇の政治にも影響しています。
そんな状況を打破するため、摂政だった聖徳太子が十七条の憲法や冠位十二階の制を制定して、天皇の権力強化を図ったのが飛鳥時代です。
聖徳太子の死後、一時的に権力を強めた蘇我氏を、中大兄皇子と中臣鎌足が大化の改新により排除し、公地公民によって人民の戸籍作成と徴税までの制度を生み出しています。
平城京へと都が移り奈良時代になると、飛鳥時代に構築された公地公民、戸籍、租庸調の税制に加えて大宝律令が制定され、律令国家体制が整備されます。
飛鳥時代と奈良時代の大きな違いは、天皇に権力を集中させる基盤となる律令である「大宝律令」の存在であり、統治体制の違いともなっています。
飛鳥時代と奈良時代の違いは?
原始時代から古代へと移り変わった飛鳥時代は、天皇に権力を集中させた国家体制を目指しながらも、基盤となる律令が確立されていません。
そんな飛鳥時代の目指した統治体制を確固たるものとする「大宝律令」を制定し、基盤を固めたのが奈良時代です。
ふたつの時代の目指した天皇に権力を集中させた中央集権の国家体制の目的は同じですが、大宝律令の有無が大きな違いを生み出しています。