1400年もの昔、飛鳥時代の日本人はどんな服装をしていたのでしょうか?
今回は、様々な史料からうかがわれる飛鳥時代の服装、そしてその特徴についてご紹介していきます。
飛鳥時代以前の日本人の服装
縄文時代はまだお金というものが存在しておらず、それに伴っての争いや身分の差もありませんでしたが、弥生時代になると身分差が生じてきました。
弥生時代の服装については、中国の「魏志倭人伝」に記述があり、布の真ん中に穴をあけて被るという簡単な装いだったとされています。
これは貫頭衣と呼ばれており、稲作民族の特徴的な服装だったと考えられています。
吉野ケ里遺跡の甕棺墓は弥生時代の裕福層に属する人物が葬られていたとされており、そこからは貫頭衣とは構造の異なる袖付きの衣装の断片が出土されました。
この断片は絹織物で作られており、当時の裕福層の服装は袖付きで赤や紫に染められた絹でできた衣を身につけていたと推測されています。
また、勾玉や金メッキが施された耳飾りなど、ステータスシンボルとしてアクセサリーを身につけるようになったのもこの頃だとされています。
飛鳥時代の服装、その特徴
飛鳥時代に制定された「冠位十二階」、これは色によって身分の差を明確に表したもので、濃い紫色が最上位となります。
冠位十二階は色はもちろんのこと、生地にも指定があり自由な服装は許されていませんでした。
しかし、文様に関する定めは見つかっていないことから、文様よりも色に重きが置かれた時代だったのではないかと推測されています。
高松塚古墳の壁画が発掘される以前は、飛鳥時代の着衣についてほとんど解明されていませんでしたが、鮮やかな高松塚古墳の壁画によって、聖徳太子の時代の服装の謎が解けていきました。
飛鳥時代の男性は、コートのような長くゆったりとした上着に腰ひも、そしてズボンのような袴を身につけていました。
飛鳥時代の女性の服装は、ゆったりとした上着の下に縦縞模様のプリーツスカートのようなものをはいており、男性と同じく腰のあたりを紐で縛っていました。
しかし、これはらあくまで上流階級の人々の服装で、一般の人々は弥生時代からほとんど変化しておらず、シンプルで色のない衣服を着ていたと考えられています。
聖徳太子の服装
かつての一万円札で有名な聖徳太子像、教科書にも聖徳太子像として使われている天子像ですが、この肖像画は当初から聖徳太子として描かれたかどうか疑問視されていました。
この肖像画の元は「唐本御影」という宮内庁が管理している8世紀に官営の工房で描かれた高級美術品です。
「唐本御影」は紙の分析などから8世紀、聖徳太子の時代から200年後に描かれたもので、描かれた服装の様式や画面構成から奈良時代のものだとされています。
天武天皇像だという説、また奈良時代の日本人を描いたもの(モデルは不明)という説、様々ありますが完全に聖徳太子ではないという確証もありません。
また、髭は後世に書き足されたもの、いたずら書きのようなものともいわれています。