飛鳥時代の着物はどんなデザインだった?

現在の日本では洋服が一般化されていますが、着物は日本の長い歴史の中で受け継がれた伝統文化です。

今回は、現代でいう着物(和服)の起源と、飛鳥時代の着物についてご説明していきます。

スポンサーリンク
asuka-jidai.comレクタングル大?

古代から飛鳥時代までの着物の移り変わり

原始時代の衣服は、熱さや寒さから体を守り、雨風や外敵から身を守るだけの用途でした。

その時代の衣服には装飾的な意味合いはなく、狩猟によって手に入れた獣や魚の皮・羽毛・木の皮などを身にまとっていただけと考えられており、その後、麻などの繊維が生まれてから、それを用いて織物、そして衣服が作られるようになっていきました。

弥生時代、中国の歴史書「魏志倭人伝」には、女性は貫頭衣という大きな布の真ん中に穴をあけて頭を通して着る、ポンチョのような衣服を身につけていたと記されています。

そして男性は、一枚の布を肩から掛けて、前で結ぶ形の袈裟衣という、インドのサリーのような形だったと伝えられています。

弥生時代には、庶民は引き続き麻などの素材でしたが、卑弥呼などの身分の高い者たちはすでに絹織物を使用していたと伝えられています。

飛鳥時代の服装

飛鳥時代の服装について以前はほぼ不明でしたが、高松塚古墳壁画の発見によって形や色などが明らかになりました。

おそらく他の古墳にも壁画が描かれていたと推測されますが、現在まではっきりした形で残っているのは高松塚古墳だけと推測されています。

飛鳥時代の人々の服装はそれ以前と同様に、男性は上着と袴そして女性は上着と裳の二部式で、帯で止められていました。

上着の裾は、袴や喪の中に入れずに、外に出して垂れ下がるようになっていたとされています。

また、服を結ぶ帯は革製ではなく織物でした。

これは大陸と交流がもたれたことで、大陸文化の影響をうけたということも明らかになっています。

飛鳥時代には男性も女性も、襟は「左衽」とよばれる左前で、それは719年に元正天皇によって出された「衣服令」に則ったものです。

飛鳥時代以降の着物の変遷

奈良時代の服装は飛鳥時代とほぼ変わっていませんが、平安時代になると遣唐使が廃止されたことによって、次第に日本独自の服装に変わっていきました。

この時代には肉体労働をする必要のない身分の高い層は、ゆったりとしていて活動的ではない服装をしていました。

しかし肉体労働をする身分の低い層の人々は、比較的体にぴったりとした活動的な着物を着用しており、「活動的でないこと」が上流階級のステータスシンボルとなり、その後重ね着が普及していきます。

十二単のような重ね着という方法は、四季の変化が大きい日本の気候に対応した工夫で、気温の変化に合わせて衣服の枚数を変えて快適に生活する術だったのです。

この時代に庶民が着ていた「小袖」は、貫頭衣の見ごろに衽と衿や袖をつけたもので、この「小袖」が現在の着物の原型であるとされています。

スポンサーリンク
asuka-jidai.comレクタングル大?

asuka-jidai.comレクタングル大?

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする