飛鳥時代末期に置かれた「防人」を、わかりやすく解説

防人(さきもり)は、飛鳥時代から平安時代に、律令制度の下で行われた軍事制度です。

ここではその防人を、わかりやすく説明していきます。

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防人という制度が登場したきっかけ

飛鳥時代の663年、日本は友好国の百済の要請に応じて、強大な唐・新羅軍と海戦を交えて大敗してしまいました(白村江の戦い)。

そして、その報復として唐が日本に攻撃をしかけてくるという可能性ができたのです。

そして、その唐からの報復攻撃に備えて創設されたのが「防人制度」でした。

大陸から海を渡って攻めてくるには、朝鮮半島・対馬・壱岐そして九州北部というのが最短で安全な航路だったので、九州の北部の防衛を強化することが肝要と考えられたのです。

「さきもり」という読み方は、古来から島や岬を守っていた「島守」「岬守」という存在があったため、これに唐の制度「防人」の漢字を当てはめたのではないかと考えられています。

防人は、地獄の単身赴任?

防人として徴収された人々の数は2000人を超えており、東国から徴収された人々がほとんどだったとされています。

それには、東国の人が屈強だったということがあげられていますが、逆にその東国の人の力を恐れて、その力を削ぐ目的があったとも伝えられます。

防人の赴任先は北九州、徴収された人々は給料がもらえないばかりか行きも帰りも移動にかかる費用そして武器は全て自腹でした。

さらに、形式上任期は3年と決まっていましたが、上の意向で延期されることも多かったとされ、一度防人として赴任したらいつ帰れるか分からない状態だったのです。

そして、防人として赴任していた時期も、地元で課せられた税(稲)を払わなくてはならないという、現在でいうかなりブラックな労働でした。

そのため、道中で命を落としてしまう例も多かったとされています。

結局は唐からの攻撃はなかったものの、この状態では防人に唐を撃退する気力はなかったのではないかとも推測されているのです。

万葉集に残る、悲しい「防人の歌」

万葉集の中には、防人として駆り出された者、そしてそれを送る家族の悲しみをこめた和歌がたくさん残っており、それを「防人の歌」と呼ばれています。

「ひなくもり 碓氷の坂を 越えしだに 妹(いも)が恋しく 忘らえぬかも」

訳すと、薄日がさしている碓氷峠を越えるときに、妻(妹は妻の意味)が恋しくて忘れられない、そんな歌です。

そういった、妻子や父母または恋人との別れを悲しむ歌、そしてその返歌が万葉集には数多く残っているのです。

また、防人の悲しさを感じた貴族も、和歌の素材として防人の歌を詠んでいます。

それは単に他人事として「悲しいだろう」と詠んだのではなく、生活水準の差こそあれ貴族たちも単身赴任になる事が多かったので、防人たちの悲しみがわかったとも考えられます。

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