飛鳥時代にあった「七道駅路」の大規模な道路の謎とは?

飛鳥時代から平安時代前期にかけて、日本では計画的に整備された道路が作られました。

今回は飛鳥時代に建設が始まった、日本の古代道路についてご説明していきます。

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■日本の古代道路の歴史

日本で道路建設が始まったのは5世紀だとされる説があり、また仁徳天皇の時代に造られた宮の周囲に、人馬の往来があったとされる道路の遺構も発掘されました。

しかし、直線的で計画的な道路が整備されたのは7世紀からだとされています。

推古天皇期に、宮のある飛鳥から各方向に直線道路が敷かれ、これらの道路は広い幅員と直線的である事が特徴で、これは遣隋使による隋との交流で、隋からの使節団を迎えるために道路整備に朝廷が力を注いだためとみられています。

また、飛鳥時代の陸上交通は徒歩がほとんどで、牛馬などの家畜は貴重だったことから庶民にまでは行き渡っていませんでした。

長距離の経路を確保するには、人や馬を休息または交代させる必要があり、大化の改新の詔では駅伝制を奨励しました。

これを「宿駅伝馬制度」といい、宿駅の機能は街道に沿って各国の国富や郡衙が兼任していたとされています。

■「七道駅路」とは

駅路とは、律令制で定められた駅使が通行する街道のことで「七道駅路」とも呼ばれています。

七道駅路は、中央と地方諸国を結ぶ7本の幹線道路で、東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海動・西海道を指します。

その原型は大化の改新以前に形成されていましたが、飛鳥時代後期の天智・天武期ごろに本格的な整備が進みました。

近年の考古学調査によると、その幅は最小でも6m、最大では30mを超えていたことが判明し、また整備された直線道路であったことも特徴とされています。

駅路の公式な使われ方は、第一には有事の際の迅速な情報伝達、第二には軍隊の移動、第三には公用の役人の移動、第四には租庸調によって納められる物資の輸送でした。

その他、国司の公務での移動など、あらかじめ定められた駅路を通ることが義務付けられていました。

■現代の高速道路・江戸時代の五街道との比較

飛鳥時代に造られた駅路は、現代の高速道路と共通する点がいくつもあります。

それは、高速道路と駅路が遠くの目的地に向かって効率的に移動するため、直線的・計画的に道路敷かれたことにあります。

その結果、高速道路と駅路では路線構成が似ており、道路網としてのネットワーク的機能を持っているということがあげられます。

その一方、江戸時代に造られた五街道や明治時代以降に定められた国道は、市街地や宿場を通って各地域を結び付ける役割を持つため、ルート構成などがかなり異なっています。

また、駅路が造られた時代の長距離輸送では馬による通行が主体だったことから、道を直線的にして交通遮断のリスクの少ないルートが選ばれたのではないかとも考えられています。

現代の日本の道路のルートの基礎が遥か昔の1400年も前に造られていたということは、意外に知られていない凄い事実です。

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