古代から飛鳥時代・奈良時代の結婚の形は、現在のものとは大きくかけ離れていました。
今回は、古代の結婚の形についてご紹介していきます。
一夫一婦制になったのは、明治時代から
日本において古代から江戸時代までは、結婚の形態は一夫多妻制でした。
そして江戸時代までは上流階級において、男子の跡取りを産んで家を相続するという名目の元で側室制度も存在していました。
現在のように「愛しているから結婚する」ではなく「部族や氏族、そして家の繁栄のために結婚する」、それが結婚の第一の目的とされていたのです。
一夫多妻制が長い期間行われてきた理由としては、「戦争」そして「平均寿命が短かった」ことも大きいとされています。
特に男性は原始から、部族間の争いで命を落とすリスクが高く、また平均寿命が短いために、早いうちに男子の跡取りを残さなければならないと考えられたのです。
明治政府が一夫一婦制を制定して結婚制度が確立されたのは、この時代、日本が西洋化していった事があげられます。
貞操観念を重視するキリスト教の教えが日本に普及したこと、また男女同権・男女平等の思想が日本に流入したことが結婚制度に大きな影響を与えたのです。
古代の結婚の形とは
原始時代から、男女が気ままに結婚する「共同婚」が行われてきました。
初めは族内で行われていた結婚が族外にも広がって、生まれた子供は母親の元で育てられるようになり、これが母系氏族性の始まりです。
そしてこれが、男性が女性の側に通う「妻問婚」の形態に発展し、この形が長く続きました。
「妻問婚」は「ツマトイ」という形で古事記や日本書紀、そして万葉集などの書物にも多く見ることができます。
妻問婚は自由恋愛による結婚でしたが、夫婦は別居が基本で、求婚の際には男性が女性の家の窓や戸の隙間などから呼んだり、男性の求婚歌に女性が返歌を送るなどの形がとられていたとされています。
有名な「竹取物語」でも、5人の貴族の男性が様々な手段を用いて、美しいかぐや姫に求婚する様子が描かれています。
腹違いなら結婚ができた!?
現在では、三親等(親兄弟・叔父叔母・祖父祖母)までは、法律で結婚が認められていません。
しかし、古代の日本では母親が異なっていれば、父親が同じでも結婚が許されていたのです。
近親者同士の結婚は劣性遺伝子が優位になり、死産そして生まれても生育が困難な子どもが生まれるリスクが高くなってしまうのです。
現在では研究によってそれが証明されていますが、古代でも経験則でそれに気がついていたと推測され、基本的に血が直接つながっている相手との結婚は避けられていたと思われます。
当時は一夫多妻制だったことから、男性は複数の女性のもとに通わなければならなかった反面、夫がいない間の女性はフリーになります。
DNA鑑定などなかった時代では、母子関係は確実でも、誰の子供かは確実ではありませんでした。
ですので、異母兄妹の結婚は認められていましたが、同母兄妹の結婚は禁忌とされていたと考えられています。