飛鳥時代の東北地方は「蝦夷(えみし)」と呼ばれ、中央の政治が行き届かない場所とされていました。
今回は飛鳥時代に行われた蝦夷征伐と、現在使われている「蝦夷(えぞ)との違いなどについてご説明します。
飛鳥時代の蝦夷について
飛鳥時代以前から、日本人は「倭人」と呼ばれていて、この当時の日本は東アジア諸国から「倭の国」と認識されていました。
古墳時代の中央集権であったヤマト政権も「倭」を自称し、この政権を引き継いだ飛鳥時代の律令国家は、主に東北の北の地方の人々を「蝦夷(えみし)」と呼び、異族視していたのです。
現在でも「倭」と「蝦夷」の境界線についてははっきりしていないものの、当時は蝦夷を征伐して律令国家に組み込むことが必要とされ、蝦夷征伐が行われました。
その蝦夷征伐によって飛鳥時代中期以後は蝦夷も中央政権に従うようになり、国内のほとんどを治めるようになったのです。
日本書紀の神武東征記中に詠まれている歌が、蝦夷についての最も古い記録です。
そこには「えみしを、ひたりももなひと、ひとはいへども、たむかひもせず」とあり、蝦夷は一人で百人に相当する強い兵だと人は言うけれど、抵抗もせずに負けたという意味となっています。
蝦夷征伐で活躍した阿倍比羅夫
阿倍比羅夫は、飛鳥時代の将軍で、越国守・後将軍・大宰帥を歴任した人物です。
飛鳥時代に東北や北海道に軍を出すということは大変な作業でしたが、阿倍比羅夫は662年に中大兄皇子(後の天智天皇)の命によって、百済救援のために朝鮮半島にまで渡ったと伝わります。
これが有名な白村江の戦いで、阿倍比羅夫はこの白村江での戦いでも戦果を残しました。
安倍氏は古くから越や北陸方面の計略において活躍した氏族で、阿倍比羅夫は658年に水軍180隻を率いて蝦夷を討ったと日本書紀に記されています。
「蝦夷征伐」とはいっても、この戦いは朝廷の威厳を示すこと、そして蝦夷に住む民族を倭の国に服従させることが第一の目的でした。
その後降伏した蝦夷の人物を郡領に定め饗応したりした事実からも、蝦夷征伐の目的が窺われます。
蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)との違い
「えみし」と「えぞ」は同じ漢字ですが、微妙な違いがあります。
飛鳥時代頃には「えみし」は現在の宮城県中部から山形県以北の東北と、北海道の大部分に住んでいました。
平安時代になると、朝廷は「えみし」に対する征服活動をやめて、支配領域を現在の秋田県と岩手県の中部を北限としました。
平安時代の末期になると、「えみし」との血縁的関係を主張する奥州藤原氏の支配が東北北端まで及ぶようになり、その後源頼朝率いる鎌倉幕府によって奥州藤原氏が滅ぼされて、東北は「えみし」と無関係な鎌倉幕府の支配下となりました。
そして「えみし」といった民族的な概念は文献から消えて「えぞ」に置き換わったとされています。
そしてその後の「えぞ」は、アイヌを指すという意見が主流となり、アイヌの大部分が住んでいた北海道は蝦夷が島(えぞがしま)・蝦夷地(えぞち)などと呼ばれるようになったのです。