飛鳥時代の日本にペルシャ人の役人がいた?!

日本とペルシャ(現在のイラン)のつながりは大変古く、それは日本の飛鳥時代に遡るといわれています。

今回は、遠い昔ペルシャ人の役人が日本にいたという、興味深い話について説明していきます。

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発見された多数の木簡

昭和40年から41年にかけて、京都から奈良・和歌山に通じる国道24号線バイパス敷設にともなって、平城京付近の発掘調査が行われました。

この調査の際に、1万点を超える木簡が発掘され、大部分が式部省関連のものでした。

式部省とは、日本の律令制における八省のうちの一つで、出土した木簡を解読することによって興味深い事実が明らかになったのです。

そこには、「破斯清通(はしのきよみち)」という名があり、奈良時代の官吏の名とされています。

その破斯清通は、式部省大学寮に勤務していたペルシャ人と推測されているのです。

式部省大学寮とは、式部省の直轄下にある官僚育成機関で、官僚候補生である学生の教育と試験を行いました。

ペルシャ人官吏・破斯清通

破斯清通は「員外大属(いんがいだいさかん)」という職に就いていたとされており、大属は大学寮の四等事務官にあたる下級官吏でした。

員外とは定員外の枠で任じられた特別職で、外国人の学問的知識を教えるために特別枠として任命されたと推定されており、勤務体系に関しては他の役人と同じだった事も解明されています。

「破斯清通」という名の「破斯」という文字は、ペルシャを意味する「波斯」と同音そして同様の意味を持つと判断され、出土品の中からペルシャ人を示す文字が確認されたのは、この発掘調査が日本初でした。

古代日本で紙の代りとして使用されていた木簡に書かれていた文字は、それまでは判読不能でしたが、この発掘調査で赤外線を使って調査した結果、日本在住のペルシャ人の役人の名前が発見されたのです。

日本とペルシャとの繋がり

約1400年前に、アラビアのイスラム勢力が世界に存在をアピールするために、当時の大国だったペルシャ帝国を侵略しました。

当時のペルシャ王はササン朝のヤズゲルド三世で、イスラム勢力の襲撃によってペルシャは負けてしまい、その結果多くのペルシャ人が国外に逃げたとされます。

国外に逃げた人々の中にはササン朝のペルシャの王族もいて、その一部は中国さらに日本にまで来たと伝えられており、その証拠が奈良の正倉院に残っています。

また、興味深いことに、日本とイランの行事に似通っている点が多くみられるのです。

例えば、年の暮れに行う大掃除、お正月のお年玉、お盆の行事等で、天皇家のシンボル「菊花」とペルセポリスの壁画に残るマークも良く似ているとされています。

そしてその時期にペルシャから渡ってきた人物の末裔であるという日本人も存在しており、在日本イラン大使館のペルシャ人専門家によると、「確実な証拠はないが、歴史的に見れば正しい主張である可能性は高い」とされています。

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