飛鳥時代後期に作られた土地制度、班田収授法について

飛鳥時代に始まった公地公民制は、日本の財政・軍事の根幹を担う重要な制度でした。

今回はその公地公民制を支える「班田収授法」についてご説明していきます。

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班田収授法の始まりと仕組み

班田収授法が実施されたのは大化の改新以降とされることがありますが、実際には701年に大宝律令が施行された時に班田収授法の基礎はできていました。

飛鳥時代になって、日本国の土地は全て天皇の所有物となり、一般の民衆には「口分田」と呼ばれる田んぼが配られました。

班田収授とは、言葉通り人々に土地を分け与える制度ですが、人々の家族構成・年齢・性別などの把握が必要になり、それに不可欠なのは「戸籍」と「計帳」という二つの書類でした。

戸籍が作られた目的とは、国が人々の家族構成などを把握して正しく田んぼを振ばることにあり、それは6年に一度更新されました。

そして計帳は戸籍に基づいて、それよりもさらに細かい情報が記録されたもので、人々から徴収する税金を正確に確実に負担させるためのものです。

班田収授法によって配られる口分田の面積

戸籍や計帳に基づいて人々に分配される田んぼの面積が決められるのですが、そこにはしっかりした基準が設けられていました。

大化の改新期頃から日本には「良賤制」という身分制度が導入されて、それは国民を「良民」「賤民」の二つに分ける制度でした。

そしてその「賤民」をまた5種類に分け、身分によって配られる田んぼの反数が変わるのです。

良民は、男性一人につき2段(たん)、女性は1段(たん)120歩(ぶ)、そして賤民の中でも一番低い身分の私奴婢は、男性240歩、女性160歩でした。

口分田の面積は、1段が360歩で、現代でいうと1段はほぼ2,000㎡で、イメージとしては学校の体育館ほどの大きさになっています。

班田収授法によって課される税

戸籍と計帳を管理し、それに基づいて税金を徴収し国に納めるのは「国司」という地方役人の最高責任者でした。

飛鳥時代後期からの日本には「租・庸・調」という税目が設けられて、そのうちの庸と調は人頭税といって人に課す税金でした。

そして「租」が口分田で分け与えられた土地に課する税金です。

しかし実は班田収授法という法律は複雑で、分け与えられる田んぼには様々な種類がありました。

その一つの例として、役人用と役人ではない人用が分かれていたことがあります。

役人用の田んぼは「職分田(しきぶんでん)・公廨田(くがいでん)」と呼ばれ、ここから採れた稲は役人用の給料や経費にあてられました。

班田収授法は、制度・目的としては優れたものでしたが、時代が進むにつれて戸籍を偽る地方役人や農民が増えて、戸籍の管理が正しく行われないようになっていきます。

そしてそれによって、税制や土地のあり方が変わっていき「荘園」の時代へと移っていきました。

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