飛鳥時代に外国との交流が盛んになった事から、この頃の日本建築は様々な国の文化の影響を受けています。
今回は、近い中国や朝鮮のみならず、ギリシャの影響を受けているのではないかとされる建造物の特徴についてご紹介します。
大陸から伝わった家の建築法
飛鳥時代以前の家は、柱を立ててそこに板や萱(カヤ)で屋根を作るという簡素なものでした。
しかし飛鳥時代になると、土台としての石を並べ、屋根に瓦を乗せるという新しい建築方向が大陸から伝わりました。
そしてこの技術によって寺院の建造が進み、法隆寺のような優れた建造物が生まれたのです。
瓦が製造されるようになったのもこの頃で、日本書紀によれば百済から4人の瓦博士と2人の寺工(てらたくみ)、そして1人の鑢盤(ろばん)博士が渡来しました。
日本最古の瓦は、蘇我馬子が造った法興寺(飛鳥寺)の瓦とされており、1196年に焼失してその後発掘調査されて瓦が出土しました。
飛鳥時代の柱の特徴は、ギリシャの影響?
重い瓦が造られて屋根に置かれることによって、それまでよりも柱の強度をあげなければならなくなりました。
そのため飛鳥時代に造られた寺院の柱は、それまでよりも間隔が狭まり、法隆寺に関しては中央に比べて端の方の柱の間隔を狭めるという工夫がみられます。
また、法隆寺の柱の側面にはふくらみがある事が特徴となっています。
柱の中ほどにふくらみを持たせた柱のスタイルを「エンタシス」といい、ギリシャのパルテノン神殿をはじめ古代ギリシャの神殿によく見られる形です。
これは、柱に近づいて見た時に、まっすぐに安定して見える工夫だとされており、日本では「胴張り」といわれています。
このテクニックは柱の下から3分の1のあたりが一番太くなるものや、上に向かって細くなっているものなどがあり、現代でも用いられることがあります。
法隆寺の柱はギリシャのエンタシス?
日本の歴史的な建造物でこのエンタシスが見られるのは法隆寺だけだとされています。
近づいて柱を見上げてみると、中間部のふくらみは目立たずに真っすぐの柱に見えるのです。
この法隆寺のエンタシスは、ギリシャからインド・トルコなどを経てシルクロードを通って、伝わったとされていました。
しかし近年、ギリシャと日本の間のどこにもエンタシスの柱を見ることができないことや、ギリシャの建築様式とその周辺への伝播などの研究から、法隆寺のエンタシスはギリシャから伝わったものではないという説が有力になっています。
しかし、この時代に使われたペガサス模様や唐草模様は、ペルシャ(イラン)や西南アジアから伝わってきたものとされており、飛鳥時代の文化は遥か遠くの国から運ばれてきたことを物語っています。