飛鳥時代の663年、朝鮮半島の南西部にある白村江で、唐と新羅の連合軍と、日本が支援する百済との間に海戦が行われました。
今回はその「白村江の戦い」の背景と経緯について、簡単にご説明していきます。
なぜ白村江の戦いは起こったのか?
当時朝鮮半島では、高句麗・新羅・百済の3つの国が覇権を争っており、475年に百済は高句麗に首都を落とされるのですが、その後二度の遷都を経て復興しました。
その頃の中国大陸では、581年に隋が、そして618年に唐が建国されて中国大陸の統一がなされました。
645年に唐は朝鮮半島へ侵攻、半島の北に位置する高句麗に何度も攻め入るようになり、当時高句麗かと百済の両方から攻められていた新羅は、利害関係のが一致することで唐と連合することにしたのです。
その後大飢饉などにより国力が弱まった百済に、新羅を従えた唐の軍が侵攻を始めたことによって、百済は日本に援軍を求めてきました。
そしてそれに応じた日本が船を出して、663年の白村江の戦いに発展していったのです。
なぜ日本は白村江の戦いに参加したのか?
日本は倭の国と呼ばれていた昔から、朝鮮半島の南との間に文化や人材の交流を持っていました。
また、百済が高句麗から攻められた時にはたびたび援軍を送ってきたということもあって、両国は深い関係を築いていたのです。
百済からの救援要請を受けた斉明天皇は厳しい決断を迫られることになりました。
百済に加担することは、当時の強国である唐・新羅を敵に回すこととなり、負けたら百済は再興不可能、そして日本も攻められるという存亡の危機に瀕する可能性もあったからです。
しかし、唐・新羅軍を倒すことができれば、百済を日本の属国とすることができる可能性があるということで、斉明天皇は出兵という答えを出したとされています。
白村江の戦いの推移とその結果
当初は優勢に戦いを進めていた百済・倭軍でしたが、百済の入り口でもある白村江の河口で唐の水軍と遭遇し、この戦いで倭軍は唐の水軍に惨敗を喫してしまいました。
その要因としては、唐の軍が国家軍であったことから、上下の統制がとれており日常的に訓練を受けていたと考えられ、それに比べて倭国軍は豪族同士の連絡や連携がとれず、武器も行き渡っていない農民出身の部隊であったことがあげられます。
そこで、なぜそういった無謀な戦いに日本(倭軍)は参戦したのかという疑問が浮かんできます。
そこには諸説ありますが、戦いに負けてもそれを国内政治に利用する、つまり、敗戦で危機感をあおって国力を高め国防を固めるために、今以上に天皇に権力を集中させようとしたということです。
百済・日本連合軍は惨敗を喫して百済再興の望みは消滅、そして倭国は唐による侵攻を受ける危機にさらされてしまいます。
しかし、白村江の戦い後の668年に唐・新羅軍が高句麗を滅ぼしたことをきっかけに、新羅は朝鮮半島の支配を企むようになり、これをきっかけに唐と新羅は対立するようになりました。
そのため唐は、倭に対しては侵攻するのではなく、融和政策をとり、唐と倭国の間に友好関係が構築される結果になりました。
そしてその後、遣唐使などによって唐の文化が日本に流入して、文化や政治において唐の影響を大きく受けるようになっていくのです。