以前は708年に鋳造された「和同開珎」が日本で最初の流通貨幣といわれていて、教科書にも記載されていましたが、それ以前の飛鳥時代にすでに貨幣が鋳造されていたという説が出てきました。
今回は、飛鳥時代に鋳造された貨幣についてご説明していきます。
飛鳥時代に作られた「富本銭」
1999年(平成11年)に、奈良県明日香村の飛鳥池遺跡で発掘されたのが「富本銭(ふほんせん)」です。
それまでは国内で初めて発行された貨幣は和同開珎というのが定説となっていましたが、この発見によってそれが塗り替えられたのです。
富本銭の材質は主に銅で、直系2.4cm・重さ4.3g、現在の10円玉ほどの大きさです。
その発掘では、鋳型によって大量生産していたことを証明する製造途中の富本銭が数十枚出土したことから、現在の硬貨のように一般的に使用される貨幣だったことがわかりました。
富本銭は、中国の「開元通宝(かいげんつうほう)」をモデルにして作られたとされており、貨幣には「富本」とと刻まれており、「富本」とは国を富ませて民をも富ませるという意味だとされています。
ただし、富本銭は当初からお金として使われたかどうかは現在でも研究の途中です。
富本銭以前の貨幣
富本銭が発行されるまで貨幣として使われていたのが「無文銀銭」とよばれる、銀でできた円板だったとされていて、表面には文様や文字はありませんでした。
無文銀銭は、中国(唐)を中心とした貿易で使われていたことから、信頼された貨幣であることが推測されています。
その無文銀銭が日本に伝わった経緯は、660年に百済そして668年に高句麗が唐に滅ぼされて、半島から日本に多数の亡命者が渡ってきたことによって、その時に一緒にもたらされたという説が有力になっています。
大陸の文化の流入によって中国を手本とした国づくりを進めていた飛鳥時代初期の日本でしたが、その後日本独自の国づくりを目指したのが天武天皇でした。
その国づくりの一環として、経済のシステムに欠かせない貨幣である富本銭を発行したのです。
国づくりの根幹だった富本銭
この富本銭の発見によって、それまで研究が行き届かなかった飛鳥時代・奈良時代の経済システムが少しずつ明らかになりました。
天武天皇は「これより以後、銀銭を使わず、必ず銅銭を使用するように」と詔勅を出し、これまでの無文銀銭の代わりに富本銭を使用するように命じたとされています。
天武天皇は富本銭という貨幣を通じて新しい国づくりを目指しましたが、銅銭奨励の勅令を出してから3年後に崩御、そして後を継いだ妻の持統天皇が開いた藤原京もわずか16年で奈良の平城京に遷都されることになります。
富本銭の発見によって、富本銭を日本最初の流通貨幣とする説が提起されていますが、広く貨幣として流通していたと断定するほどの証拠はいまだに見つかっていません。
しかし、それまであまり分かっていなかった和同開珎以前の貨幣として、富本銭が発見されたことは大きなできごとであり、これからさらに研究が進むものと思われます。