飛鳥時代の宮殿はどこにあった?遺跡は?

宮殿とは、王族や皇族などの君主やその一族が居住した御殿、あるいは神を祭る社殿を指します。

ときの権力者が私的な生活を送る場所と政務などの公務にあたる場所が共存するため、複数の建物や施設で構成されています。

日本では飛鳥時代に確立された天皇への中央集権によって、天皇の住居のみが宮殿と呼ばれ、各地に点在した武士の住居や城砦とは区別されます。

ここでは、飛鳥時代の宮殿の場所や、遺跡などについてご紹介します。

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飛鳥時代の宮殿とは?

推古天皇が592年に豊浦宮で即位し、694年に藤原京へと遷都されるまでの約100年の飛鳥時代、歴代の天皇たちが飛鳥周辺に宮殿を造っています。

舒明天皇は明日香岡本宮、皇極天皇は飛鳥板蓋宮、斉明・天智天皇は飛鳥岡本宮、天武・持統天皇は飛鳥浄御原宮と、それぞれに宮殿を移しています。

それぞれの宮殿の所在地がどこだったのか、江戸時代から諸説がありました。

現在では、岡本宮、板蓋宮、岡本宮、浄御原宮の四つの宮殿が、ほぼ同じ場所で断続的に続いていたと考えられています。

そのため、「板蓋宮跡」とされた史跡が、2016年には「飛鳥宮跡」の総称に改められています。

史跡指定されている「飛鳥宮跡」とは?

史跡指定されていた「飛鳥板蓋宮」は、聖徳太子の死後、中大兄皇子らによって蘇我入鹿が暗殺された「大化の改新」の舞台となった皇極天皇の宮殿です。

檜皮葺や草葺が一般的だった時代に、板で屋根を葺いた建築様式は、斬新さと特徴的な建物だったことが推察できます。

継続的な遺跡調査と研究により、飛鳥時代には前述したような複数の宮殿が判明しています。

それらの調査研究結果を受け、平成28年に「飛鳥宮跡」へと名称が変更され、飛鳥浄御原宮の石敷広場や大井戸跡が復元されています。

飛鳥から藤原宮、そして平城京へと遷都した宮殿には、当時の統治機構を始め、日本の国の在り方を知る手がかりが残されています。

ただ、明確な宮殿の位置に関しては、現在でも明らかとはなっていません。

飛鳥時代の宮殿の場所と遷都の謎

中央集権の国家体制が始まった飛鳥時代には、天皇の即位やさまざまな理由から宮殿を移していて、今でも明確な場所は確定されていません。

ただ、遺構や木簡などから、飛鳥地方に残る四つの宮殿群が、「飛鳥宮跡」として史跡に認定されています。

飛鳥時代の宮殿からは、当時の国の在り方をはじめ、文化や芸術、周辺地域との関わりなどを推測させる重要な存在意義を持っています。

特に、当時の建築様式や技術に、中国大陸と仏教との深い関係性と影響が垣間見えます。

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