飛鳥時代は、日本に仏教が伝来し日本における仏教文化が栄えた時代でした。
今回は、飛鳥時代に日本に渡来して仏教の振興に寄与した二人の僧についてご説明します。
仏教の伝来
百済からの仏教の公伝は、飛鳥時代以前の538年または552年とされています。
この当時、仏教の受容を進めたのは蘇我稲目で、その後仏教を容認する蘇我氏と、これに反対する物部氏との争いに発展し、これに勝利した蘇我氏が朝廷で力を持つことになります。
その後用明天皇・推古天皇が仏教を支持したことによって、摂政である聖徳太子そして重臣の蘇我馬子が率先して仏教を広めていきました。
蘇我馬子は法興寺(飛鳥寺)を建立、そして聖徳太子は「三経義疏」という「法華経・維摩経・勝鬘経」の三つの経の注釈書を書き、仏教の導入に力を入れました。
この後仏教は国家鎮護の道具となって、朝廷自らも寺院を建てるようになったのです。
渡来僧、恵慈と慧聡
飛鳥時代の仏教は、渡来した百済と高句麗の仏僧によって支えられていました。
その中でも、595年に渡来した高句麗の僧・恵慈と百済の僧・慧聡は、飛鳥寺に居を構えて熱心に布教活動を行ったとされています。
高句麗から渡来した恵慈は、聖徳太子の仏教の師となり、親交を深めました。
恵慈は法興寺で仏法を説き、聖徳太子の法華義疏を広めるなど熱心に活動を続け、その後三経義疏を携えて高句麗に帰国しました。
622年に聖徳太子が亡くなったという訃報を聞いて大いに悲しんだとされ、自らも翌年の同じ日に聖徳太子と浄土で会うことを誓って亡くなったと伝わります。
また、百済から渡来した慧聡も法興寺に住み聖徳太子に仏教を教えたとされています。
他にも多数の僧が渡来し、飛鳥文化(仏教文化)の発展に寄与しました。
仏教文化
飛鳥時代以前から大陸から日本に来た渡来人たちは、当時の日本人よりも多くの知識や技術を持っていました。
飛鳥時代には、聖徳太子らによって遣隋使が派遣され、大陸に留学して学んだ者、そして連れて帰ってきた渡来人によって仏教が日本に正式に伝えられました。
それによって、飛鳥文化(仏教文化)が花開き、現在でも残る法興寺(飛鳥寺)・法隆寺などの寺院、そして多くの仏像が造られました。
中国の南北朝時代の文化が朝鮮を経由して伝わった結果生まれた飛鳥時代の仏像は、北魏の厳しい表現と、南梁の柔和な表現の両方を特徴としています。
その後、奈良時代以降には伝来した文化と国風文化が融合し、造られた仏像なども製造方法や表情などに大きな違いがみられます。
渡来人が日本の文化や政治の基礎を作ったといっても過言ではないのです。