飛鳥時代に朝廷が行った東北征伐、その目的と結果とは?

1400年前の飛鳥時代の日本、東北は異民族の住む地でした。

今回は、飛鳥時代の東北地方、そしてに朝廷が行った東北征伐についてご説明していきます。

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飛鳥時代、東北に国境線があった

日本列島が現在の日本の形になったのは、北海道と沖縄を含めると江戸時代になってからのことです。

飛鳥時代には、日本の国境線は宮城県の仙台よりやや北方にあり、それよりも北にある岩手や青森地方は「蝦夷のくに」(国家ではない)でした。

人類学的にはヤマト民族と、北方にすむ蝦夷民族は同じなのですが、ヤマトは蝦夷を異民族と考えていたのです。

そのため、ヤマトは勝手に北と交渉を断ち、ヤマト政権の支配は現在の宮城県中部までとなりました。

7世紀半ばの朝廷が中国に対して「我が国は蝦夷という異民族を従えている」と主張したという記録も残っています。

飛鳥時代の東北征伐

飛鳥時代の大宝元年(701年)、大宝律令の制定によって東北征伐(蝦夷征伐)が行われました。

和銅元年(708年)に越後国に出羽郡(でわごおり)が置かれ、二年後に巨勢麻呂(こせのまろ)を陸奥鎮東将軍、そして佐伯石湯(さえきのいわゆ)を征越後蝦夷将軍に任命したのです。

彼らは十か国の兵士を動員して大掛かりな軍事行動を行い、これは朝廷が初めて行った武力による征服だったとされています。

この軍事攻撃で、蝦夷の豪族は突然の大軍に抵抗するすべもなく敗れてしまいました。

そしてこの戦果により、東北地方での朝廷の勢力圏は仙台平野と最上川を結ぶ付近まで広がり、それ以来中央から東北に移住する者が増えたとされています。

また、東北地方に住んでいた豪族の中にも、朝廷に従って姓をもらう者も増えていきました。

蝦夷・多賀城

東北にも城柵を設けて支配体制を敷きたい朝廷は、大化の改新直後に陸奥国を置き、712年には出羽国を置きました。

しかし、朝廷の役人が蝦夷であった地に大勢移住してきたことから、先住民である蝦夷との間に摩擦が生じ、そのために朝廷は現在の宮城県多賀市に「多賀城」を建設します。

多賀城を作った最初の目的は境界線の守備のためでしたが、それは陸奥の支配というよりも、朝廷の統括している領地を明確に示すためのものだったとも考えられています。

多賀城が文献に始めに登場するのは天平9年(737年)で、この時には「多賀城」ではなく「多賀柵」と記されています。

その後奈良時代から平安時代には、多賀城に陸奥国府や鎮守府が置かれて、11世紀中期までの東北地方の政治・文化そして軍事の中心地となりました。

現在では日本三大史跡に指定されている多賀城跡は、政庁跡や城碑・復元された塀などが残っており、1000年以上も昔の歴史に触れることができる貴重な場所となっています。

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