飛鳥時代の服装、貴族と庶民との大きな違いとは?

飛鳥時代は、身分の差・貧富の差が生まれた時代でもありました。

今回はその背景と、貴族(裕福層)と庶民の服装の違いについてご紹介していきます。

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律令による統一国家となった飛鳥時代の日本

飛鳥時代よりはるか以前の日本は、主に狩猟によって食料を得てきましたが、弥生時代になると稲作が始まり、人々は土地を持って定住するようになりました。

それまでは家族単位だった集団がやがて村となり、より力を持った村長が豪族の始祖へと発展していきます。

飛鳥時代になり、推古天皇の下で聖徳太子・蘇我馬子が、天皇を中心とした統一国家を目指し、日本中の土地を天皇(朝廷)の所有とし、それを貸し与えて税金を取るという形態になりました。

このように飛鳥時代は、富裕層と庶民との貧富の差が激しくなった時代でもあったのです。

食べ物に関しても貴族社会の人々は山海の珍味を集めた贅沢な食事、しかし庶民(農民)はわずかな米と雑穀・茹でた野菜そして海藻の汁というような貧しいものでした。

飛鳥時代の服装、貴族と庶民との差

食事でもわかるように、貴族と庶民とでは暮らしに大きな差がありました。

住居も、天皇の宮は広く住みやすい住環境だったにも拘らず、庶民はこれまでの時代とほぼ変わらない竪穴式住居に住む者が多く、収穫したものを著属する高床式の倉庫などがありました。

飛鳥時代の文化を現代に示すものは、上流階級の人々が建てた建築物で、仏教文化や国際的文化などの特徴があげられますが、全ての国民がその恩恵にあずかっていたとは到底考えられないのです。

服装に関しても同様で、身分の高い階級の人物は、絹織物に鮮やかな彩色を施したものを着用していました。

また、一般庶民の中でも貧富の差は存在していて、庶民の中でも比較的裕福なものは貴族に近い服装をしていたのではないかと考えられています。

しかし、地方の農民などは弥生時代・古墳時代とほぼ変わらず、白色の貫頭衣、または白色の布をまとって紐で結ぶスタイルだったのではないかと推測されています。

庶民の服の素材も、絹ではなく麻や楮(こうぞ)などの目の粗い肌触りも悪いものでした。

ちなみに、上流階級の人々のための絹を織るために必要な養蚕は、現在でも天皇家でその伝統を伝えており、皇后が自ら蚕から糸をとる作業を行っています。

飛鳥時代の服装に関するトリビア

着物(和服)を着る際には、男女ともワンピース型の衣服を、前を左右に打ち合わせて帯を締めて止めるという形で着用します。

古墳などから出土した埴輪を見ると、その打ち合わせは左前のものが多くなっています。

現在では左前に着物を着ることは避けられていますが、これはいつごろからなのでしょうか?

これには諸説ありますが、奈良時代に出された「衣服令」という令の中の「初令天下百姓右襟」という一文が、その起源であるといわれています。

それ以前は特に定められていなかった打ち合わせでしたが、この頃から「庶民は右前に着ること」と定められ、これ以降右前に着物を着る習慣が定着したものと考えられています。

その理由に関しては諸説ありますが、その背景には「左の方が右寄りも上」という中国の思想が影響しており、高貴な人にだけ左前が許され、庶民は右前に着るように定めて差別化を図ったともいわれています。

また、労働者である庶民には右前の方が動きやすいから、という説もありますが、いずれも確かなものではありません。

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