飛鳥時代に目的が変わった?!女性のお化粧の歴史について

古代から、日本人の生活の中に「化粧」が存在しました。

今回は飛鳥時代に転換期を迎えた、日本の「化粧」についてご説明していきます。

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初めての化粧品とは何だったのか?

日本の化粧の始まりといわれる古墳時代以前の化粧の目的は日差しや寒さ、そして乾燥から肌を守るため、または儀式・呪術的な意味合いを持つもので、「原始化粧」とよばれるものでした。

そしてその化粧品の原料は、赤土だったと推測されています。

赤土には酸化鉄・酸化鉛・硫化水銀などが含まれていて、これを顔や体に塗っていました。

「魏志倭人伝」には、「倭人は体を赤色に塗る」という記述がありますが、これは当時の日本人が赤土を塗っていたことを表したと考えられます。

また「赤色」は太陽・血・炎の色だったことから、当時の人々にとってパワーの象徴であり、顔や体に赤色を塗ることで、災いや悪霊から身を守るとされていました。

遣隋使が持ち帰ったとされる「白粉(おしろい)」と「紅」

飛鳥時代になると、中国や朝鮮からの文化が日本に流入し、これによって化粧が儀式的なものから美しさを求めるものに変わっていきます。

「原始化粧」の時代から、現代のような自分を美しくそして魅力的に見せる「伝統化粧」へと変わったのが飛鳥時代なのです。

この時代、衣装や髪型などの装いの文化も伝えられ、贅沢なものを手に入れることができる富裕層の女性たちは、大陸の衣装や化粧を積極的に取り入れていきました。

飛鳥時代・奈良時代には、綺麗な色で口元や額に星や花を描く、唐のメイク方法が流行したとも伝えられています。

そういった様子は、奈良時代中期に日本で描かれた「鳥毛立女屏風」の女性に見ることができます。

白粉を塗り紅を使ったポイントメイクが施されたこの女性像は、中国の敦煌に同じ絵柄の壁画があることから、唐のメイク法が日本に伝わって流行したと考えられているのです。

天皇にも献上された「白粉」

日本初の国産白粉が作られたのも、飛鳥時代のことでした。

そしてこれが第41代持統天皇に献上され、持統天皇はとても喜んだという記録も残っています。

白粉の原料となる水銀は弥生時代にはすでに発見されていたともされていますが、三重県で伊勢水銀(いせみずがね)が発見されたのは飛鳥時代でした。

伊勢水銀を原料とする伊勢白粉は公家の御用達となって、この後の和化粧の基本のアイテムとして栄えていきます。

平安・鎌倉時代まで富裕層の女性は伊勢白粉を使っていましたが、高価なものだったので庶民は鉛白粉や、お米などのデンプン白粉を使用して装っていました。

しかし、庶民が使う鉛白粉には鉛が含まれているため、鉛中毒による健康被害は深刻でした。

また水銀白粉の製造過程での水銀中毒が問題となりましたが、昭和になって鉛白粉の製造禁止令がでるまで、これらは使われ続けていたとされています。

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