1400年前の7世紀、飛鳥時代は世界の中で「日本国」が誕生した時代といっても過言ではありません。
今回は飛鳥時代に行われた新しい国づくり、そして当時の都の様子をご紹介します。
飛鳥時代に推古天皇の下で進められた国づくり
日本初の女性天皇である第33代推古天皇は、厩戸皇子(聖徳太子)を摂政に、そして蘇我馬子という二人の有能なブレインと共に新しい国づくりを始めました。
それは、東アジアと交流をして最新の文化を取り入れ、日本を天皇中心の律令国家に生まれ変わらせるということが目的でした。
推古天皇は仏教を容認し取り入れ、神仏を調和させた国づくりの基礎を築いたのです。
それまでの日本は、地方の豪族がそれぞれ自分の領地を経営をしていましたが、推古天皇は遣隋使を派遣して海外の文化や政治を取り入れ、また17条憲法を制定するなど、天皇を中心とした中央集権国家を目指しました。
それには厩戸皇子(聖徳太子)と蘇我馬子の功績も大きく、飛鳥時代は日本の大きなターニングポイントとなったのです。
飛鳥京
飛鳥時代には、奈良は日本の首都でした。
6世紀~8世紀末の間、天皇の住居である「宮」は、滋賀や大阪に移った一時期を除いて、ほとんどが奈良の地で営まれました。
現在では当時を偲ばせるのどかな風景が広がる奈良・飛鳥の地ですが、当時は日本の政治・文化の中心地として活気に満ち溢れていたのです。
この飛鳥のエリアには複数の宮跡が散在しており、これはその当時、天皇が代わるたびに新しい宮を作って遷都する習慣があったためで、宮の場所が変わるたびに役所なども築かれました。
これらの飛鳥時代の複数の宮を総称して「飛鳥京」と呼んでおり、平城京などとは違って一つの宮を指すのではありません。
現在「飛鳥京跡」の碑が立っている「伝飛鳥板蓋宮跡」は、朝鮮三国(高句麗・新羅・百済)からの使者が皇極天皇に貢物を贈る儀式が行われた場所です。
そしてその最中、中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我入鹿を暗殺、これが大化の改新の発端となった乙巳の変です。
それによって蘇我氏は滅亡し、天皇を中心とした中央集権政治を目指す改革の始まりとなりました。
伝飛鳥板蓋宮跡
飛鳥京跡は、現在の奈良県高市郡明日香村にある飛鳥時代の遺跡のことを指します。
これは飛鳥京という都市としての遺跡群の総称で、歴代天皇の宮や官衙、そして豪族の邸宅や寺院など大和朝廷の拠点である建造物や広場・道路なのど都市関連遺跡です。
飛鳥京跡は6世紀末から7世紀後半までに営まれた諸宮の研究によって、この地が朝廷の支配拠点となる政治都市だったことがわかり、この時代に国づくりが進んだことを示しています。
伝飛鳥板蓋宮跡を中心に数々の遺跡が発見され、まだ未発見の多くの遺跡や遺構があるとされており、遺跡全体の範囲・規模はまだわかっていません。
律令国家としての日本の誕生
飛鳥時代には大陸との交流が深まり、様々な文化が流入しましたが、それと同時に国家を安定させ、外国からの攻撃にも対応できる措置も必要となってきました。
そのため飛鳥時代は、律令(法律)が作られ、天皇を中心とした中央集権国家の創成期だったといえます。
飛鳥時代初期に即位した推古天皇の下で聖徳太子や蘇我馬子によって作られた17条憲法・冠位十二階は、その後形を変えながらしっかりとした法律になっていきます。
現在の日本で行われている法律一般の基礎が、1400年以上前の飛鳥時代に作られたといっても過言ではないのです。
ほぼ1世紀にわたり宮が置かれた飛鳥の地でしたが、それも持統天皇の飛鳥飛鳥浄御原宮で最後になり、その後は当時の先進国である唐と渡り合うべく、より広く平坦な地を求めることになっていきました。