飛鳥時代の朝鮮出兵、誰がどんな目的で大陸に渡ったのか?

朝鮮出兵といえば、戦国時代に豊臣秀吉が行った朝鮮出兵がよく知られていますが、飛鳥時代にも日本は朝鮮出兵を行っていました。

今回は飛鳥時代の朝鮮出兵、白村江の戦いについてご紹介します。

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当時の朝鮮事情

朝鮮半島はかねてから、百済・新羅・高句麗の3つの国が覇権争いを繰り返していました。

この時代を朝鮮三国時代と呼び、地理的には現在の南朝鮮の西側が百済、東側が新羅、そして北朝鮮から中国大陸にかけての地帯が高句麗でした。

660年に、新羅と唐(中国)の連合軍によって百済は滅ぼされてしまい、その残党勢力が日本に使者を派遣して援軍を求めたのです。

百済は、百済の政治闘争に敗れて日本に渡った王族の一人、余豊璋(よほうしょう)という人物を百済の王にしたいので百済へ帰すことも要求してきました。

百済に加担するということは、強国である唐を敵に回すということ、日本は重要な決断を迫られました。

この時の日本の天皇は斉明天皇、斉明天皇は皇極天皇が重祚(二回即位すること)した女性天皇で、飛鳥時代に大いに功をあげた人物です。

斉明天皇の決意・朝鮮出兵

斉明天皇が再び皇位についたのは62歳の時で、政治の実権はほぼ皇太子である中大兄皇子が執っていたとされていますが、斉明天皇は様々な改革に積極的で行動的な女性天皇だったとされています。

斉明天皇は、百済とともに新羅・唐と戦うことはリスクが高いけれど、勝つことができれば百済を属国扱いできると踏み、全面的に支援することを決断しました。

そして斉明天皇は自ら出陣、大阪~岡山~愛媛を経由して福岡(筑紫)まで兵を集めながら船で移動するのですが、661年に筑前まで来た斉明天皇は、ここで亡くなってしまいました。

天皇自ら戦争に参加するというのは、斉明天皇以降ほぼ行われていないことをみると、この斉明天皇の朝鮮出兵に賭ける熱意は相当のものだったと推測されます。

白村江の戦い

663年に、白村江で新羅・唐の水軍と旧百済・日本軍との戦闘が行われました。

そして結果は惨敗、唐の軍が軍事演習が行われており統制がとれていたというのが大きな理由ですが、日本軍に実戦経験が乏しかったことや、一族の単位で行動してしまったことも敗因となりました。

多数の人々が斃れるという悲惨な結果となり、この敗北によって新羅・唐の軍が日本に攻め込んでくれば日本は国家存亡の危機に立たされてしまいます。

日本は白村江の敗戦を受けて、必死の国土防衛を余儀なくされました。

国土を防衛するためには、天皇主権の下で人民の統治をすることが不可欠になり、これによって日本は急速に天皇中心の中央主権体制が出来上がっていくことになります。

その後新羅と唐が対立したため、懸念していた日本への侵攻はありませんでしたが、白村江の戦い出の敗戦は、その後の日本国家の整備に大きな影響を与えたのです。

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