飛鳥時代に女帝が多かったのには理由があった?

日本が国家として歩み始めた飛鳥時代、この時代の天皇の半数は女帝でした。

ここでは、なぜ飛鳥時代に女帝が多かったのか、そしてその女帝たちの実績についてご説明していきます。

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日本初の女性天皇が誕生した理由とは

日本で初めての女帝である推古天皇は、598年に即位して、聖徳太子や蘇我馬子と共に新しい都の造営から始まって、天皇を中心とする中央集権国家の建設に尽力しました。

飛鳥時代の間には、平城京への遷都(710年)までの間に、推古天皇・皇極天皇(斉明天皇の重祚)・持統天皇と、女帝が集中しています。

推古天皇即位から11代・117年の間に4代もの女性が誕生したのには訳があります。

女性で初めて推古天皇が即位した理由は、先代の第32代崇峻天皇が蘇我馬子の謀略によって暗殺されてしまったことに始まります。

崇峻天皇の後継者としての天皇候補は3人、その中の一人が厩戸皇子(聖徳太子)でしたが年が若いことなどの理由ですぐに即位できなかったのです。

そこで、蘇我馬子の姪でもある推古天皇を一時的に即位させて、中継ぎ的な役割としました。

しかし推古天皇は、聡明で人格も優れていたことから、厩戸皇子と蘇我馬子との協力体制のもとで日本に大きな改革をもたらしたのです。

飛鳥時代に女帝が多かった理由とは

まず、女性である推古天皇を即位させたのは、蘇我馬子の思惑が絡んでいたとされています。

その当時朝廷内で権勢をほこっていた蘇我馬子は、自分の思い通りに動かせると思われる人物を天皇にしたのです。

このように、当初は中継ぎ的なお飾りの天皇として即位したはずの推古天皇でしたが、皇太子になった厩戸皇子を摂政とし、蘇我馬子とも良好な関係を保って、17条憲法の制定そして冠位十二階制の導入など、天皇主権の国造りに尽力しました。

また、遣隋使派遣など外交にも積極的で、これによって日本に仏教がもたらされて、文化や政治に大きな影響を与えました。

推古天皇の最も優れたところは、蘇我馬子(蘇我氏)と対立することなく、良好な関係を築いて上手に政治を行ったところにあると思われます。

第35代皇極天皇は、一度孝徳天皇に皇位を譲りますが、もう一度第37代斉明天皇として即位しました。

皇極天皇・持統天皇即位の理由

皇極天皇の即位の理由は、推古天皇の時と同じく次期天皇候補である皇太子が育つまでの中継ぎとしての役割でした。

実際に政治を動かしていたのは中大兄皇子や中臣鎌足らでしたが、それでも皇極天皇は優秀なブレインと共に政治の改革を進めました。

持統天皇もまた、天皇の後継者問題によって即位した女帝ですが、持統天皇もまた優れた人格の女性だったと伝えられています。

この3人の女帝に共通することは、天皇の後継者問題で即位させられたにもかかわらず、その優れた人格と女性ならではの包容力・許容力が、飛鳥時代の政治改革を推し進めたことにあるといっても過言ではありません。

一説によると、この時代の女帝は巫女(シャーマン)的要素も持っていたとされており、また仏教の交流にも力を注ぎ、神仏が融合した国造りの基礎ともなったとされています。

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