飛鳥時代の歴史に欠かせない3人の有名な人物とは?

飛鳥時代は、有力豪族の物部氏と蘇我氏の争いから崇峻天皇の暗殺、そして推古天皇の即位した592年から始まります。

今回は、飛鳥時代の歴史を語るうえで欠かせない3人の人物について、簡単にご説明していきます。

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日本初の女性天皇・推古天皇

第33代推古天皇は、先代の第32代崇峻天皇が有力豪族である蘇我氏に暗殺されたことを受けて即位した、日本で初めての女帝です。

蘇我氏はライバルである物部氏を滅ぼして、朝廷内で絶対的権力を持ちました。

推古天皇は、蘇我氏の蘇我馬子が推古天皇の叔父に当たることから蘇我氏との関係は良好で、次の天皇(男性)が成長するまでの中継ぎという役割を担っていたともされています。

しかし推古天皇は聡明で人格も優れており、絶対的権力を持つ蘇我馬子との政治的調整も成功させ、蘇我馬子との協力体制を維持しました。

推古天皇の即位直後に、次期天皇候補(皇太子)とされていた竹田皇子が若くして亡くなるという事件が起こりました。

このことによって厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子となり、推古天皇は厩戸皇子を摂政としました。

摂政とは天皇の補佐役であり、女帝や幼い天皇が即位した場合に設けられた役職です。

厩戸皇子(聖徳太子)

有名な聖徳太子は、推古天皇の摂政そして皇太子として様々な実績を残します。

聖徳太子が関与した様々な政策の中で一番影響力が大きかったのは遣隋使の派遣で、これによって中国との国交が復活しました。

また、遣隋使が見聞した中国や朝鮮の制度を基に作られた冠位制度「冠位十二階」や、朝廷官僚の心得をまとめた「17条憲法」も聖徳太子が大きく関わっていたとされています。

仏教を本格的に日本に広めたのも聖徳太子で、法隆寺の建立も聖徳太子の大きな功績だといえます。

有能な聖徳太子は次期天皇として期待を集めたのですが、推古天皇在位の間に病のために若くして亡くなってしまいました。

蘇我馬子

蘇我馬子は、20代の若さで大臣の座につき、敏達・用明・崇峻・推古天皇の4代にわたりその地位を守り、蘇我氏繁栄に尽力した権力者です。

天皇の外戚として権勢を誇り、排仏派であった物部氏を滅ぼし崇峻天皇を暗殺したともされています。

蘇我馬子のイメージは、従来から「権力への執着」「朝廷内での専横」のように描かれていますが、実は天才伝説があるほど優秀な人物だったと思われるのです。

実際「日本書紀」には、蘇我馬子はそのような書かれ方をされています。

推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子は3人とも優れた人物で、推古天皇も蘇我馬子と聖徳太子の働きぶりを評価していました。

聖徳太子の功績とされている「冠位十二階」「17条憲法」も推古天皇の下で蘇我馬子と聖徳太子が作ったともされています。

そのため近年では、政策の主体は推古天皇と蘇我馬子、そして聖徳太子はそれをうまくサポートする立場だったのではないかといわれています。

繋ぎ役として即位したはずの推古天皇でしたが、それにも関わらず約35年という長期政権を築き上げ、次期天皇についての遺言を残すことなく625年に崩御しました。

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