飛鳥時代は推古天皇をはじめ、延べ4人の女性天皇が即位したというう、女性が活躍した時代だといわれています。
ここでは、飛鳥時代の女性の服装、そして当時の服の名前についてご説明していきます。
飛鳥時代の女性の活躍、そして服装
飛鳥時代には数人の女性天皇が即位しました。
その理由としては、天皇が急逝したために次期天皇候補が若かったことから、中継ぎとして近親の女性を天皇に据えて、近習たちが政治を行おうとしたことにあります。
しかし、第33代推古天皇を始め天皇に即位した女性たちは聡明で自ら政治を行う器量を備えていました。
そのため、飛鳥時代は様々な改革が行われ、中央集権国家の基礎が築かれることになったのです。
これは、女性の天皇が有能だったことだけではなく、周囲との折衝が上手だったことや信頼できるブレインがいたことにも由来します。
飛鳥時代の高貴な女性たちの服装は、上はゆったりしていて鮮やかな染色が施されたもの、そして下は裾が広がったスカートのようなものを着用していたと考えられています。
しかし、農民など一般庶民の服装は、色のついていない麻などの白い布をまとっていました。
高松塚古墳の発見が大きな手掛かりに
以前は飛鳥時代の人々の服装に関しては、ほとんど資料がなく不明な部分が多かったのですが、高松塚古墳の壁画が発見されたことで当時の服装などが明らかになったのです。
1970年に、奈良県明日香村で村人が生姜の貯蔵のために穴を掘ったところ、穴の奥に古い切り石が見つかり、これが高松塚古墳の発掘調査のきっかけになりました。
高松塚古墳は、鎌倉時代に盗掘の被害があり、石室には盗掘の跡が見られましたが、壁画の彩色は鮮やかに残っていました。
この極彩色の壁画の発見は、考古学史上大変大きな発見となって当時のトップニュースになり、文化庁は壁画の保存の対策と研究調査にとりかかりました。
この発見によって、飛鳥時代の女官の服装や髪型などが明らかになり、推古天皇始め女帝たち、そして万葉歌人として有名な額田王の姿がイメージできるようになりました。
飛鳥時代の衣服の名前は
男性の服は、衣褌(きぬ、はかま)で、女性の服は衣裳(きぬ 、も)と呼びます。
当時の貴族は男女とも身分によって、衣服の色や持つ物が決まっていて、頭には冠を被っていました。
飛鳥時代の女性のスカート状の裳は、カラフルな彩色が施されたプリーツになっていたと考えられ、当時の染色技術がかなり発展していたことが窺われます。
身分の高い女性は豪華な装飾品を着けていたと考えられており、勾玉・管玉の腕輪や金の耳飾りなど多種多様なものが発見されています。
頭は基本的には髷を結い、櫛なども使用されており、これらのアクセサリーは、飾り立てる目的ともう一つ呪術的なものもあったと推測されています。
そしていずれも当時の衣服は、大陸北部の胡族や、朝鮮半島に見られる服装の影響を受けていると思われます。