飛鳥時代からの土地制度とは、どういうものだったのか?

飛鳥時代は律令制の元、様々な政治改革が行われ、土地の制度も大きく変わりました。

今回は、飛鳥時代の土地制度についてご説明していきます。

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飛鳥時代以前の土地制度

弥生時代に稲作が行われるまでの日本は、「自分の土地」という観念はなく、人々は狩りをしながら移動して生活をしていました。

そして弥生時代になり稲作を積極的に取り入れるようになると、土地を持って定住し村が構成され、そのなかで人々はそれぞれの役割を果たさなければならなくなりました。

それゆえに、特定の耕地とそこで働く人々は固く結びつくようになり、それを巡って争いが起こるようになったのです。

そしてその争いに勝利した一族は豪族となり、支配階級の上層に位置することになり、豪族の集合体である大和政権が形成されました。

大和政権時代(飛鳥時代以前)は、ヤマト政権の直轄地を「屯倉」といい、豪族の土地を「田荘」「田所」といいます。

飛鳥時代の土地制度

まず、大化の改新(645年)によって「公地公民制」が導入され、全ての土地が国家の所有であることが定められました。

この制度は、隋や朝鮮の制度を参考にして採用されたものです。

公地公民制は、各地の有力者が長年所有していた土地や人民を全て明け渡すことを意味していますが、当然有力者達は自分の土地や利権を簡単に明け渡すことはしませんでした。

そのため645年に実施された公地公民制は、有力者たちの反発によって、また、土地や人民の私有禁止が正式に発令されなかったために、実現するまで長い時間がかかりました。

公地公民制の本格的な実現は、702年の大宝律令によるものと考えられています。

公地公民制の根幹には、「戸籍」「班田収授」という制度があり、戸籍で人民を管理し、戸籍で把握した人民に口分田(土地)を与えるというのが、班田収授の仕組みです。

公地公民制の意義

公地公民制によって、朝廷は農民から効率的に税を搾取できるようになり、財政は豊かになりました。

この公地公民制はこの後奈良時代にも継続され、平城京造営や大仏や寺院を建てるなど巨大な公共事業が行われるようになり、これらの資金は公地公民制によって得た税金などが使われたと考えられます。

公地公民制の役割そして意義は、次の3点になります。

・兵力を効率的に動員できる

・人に対して賦課する税金の創設

・土地に賦課する税金の創設

公地公民制によって国家の軍事と財産は支えられたといえますが、農民の身分は低く、重税を課されることによって苦しい生活が強いられました。

奈良時代には税金の負担や労役から逃れるために、豪族や貴族のもとに身を寄せる人民が増えることになり、次第に口分田の不足や荒廃が問題となっていきます。

そのため朝廷は「三世一身法」「墾田永年私財法」などを制定するのですが、次第に公地公民制は廃れていき、その後、寺社や貴族が所有する私有地「荘園」が発生して拡大していくのです。

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