飛鳥時代と古墳時代の文化の違いとは?

以前は教科書等で、奈良時代以前は「大和時代」と区分されていましたが、現在では飛鳥時代とそれ以前を区別するようになりました。

今回は、飛鳥時代とそれ以前の古墳時代との、文化的・政治的な違いについてご説明していきます。

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古墳時代と飛鳥時代、一番大きな違い

時代を区分するには様々な基準がありますが、一番ポピュラーなものは「歴史年表」で、現在の日本史年表では「先土器時代(旧石器時代)」「縄文時代」「弥生時代」「古墳時代」そして「飛鳥時代」と記載されています。

しかし、飛鳥時代が始まった年号ははっきりと定まっておらず、飛鳥の地に京が置かれていた崇峻天皇5年(592年)からとする説、また聖徳太子が推古天皇の下で摂政になった推古天皇元年(593年)からとする説など、様々な見方がされています。

飛鳥時代の始まりは曖昧ですが、現在の日本に繋がる政治的改革が飛鳥時代にあったことは事実だとされます。

それは、豪族の集合体だった日本が、律令を制定し天皇を中心とした統一国家に変わっていったということです。

17条憲法・冠位十二階、そして大化の改新・大宝律令の制定など、飛鳥時代には大きな政治的改革が行われ、律令国家としての基礎が築かれました。

飛鳥時代と古墳時代の文化的な違い

推古朝の時代に起こった文化を、飛鳥文化といい飛鳥文化は最初の仏教文化とされています。

飛鳥時代には遣隋使などによって、日本に朝鮮半島の百済や高句麗を通じて伝えられた中国大陸の南北朝の文化が流入してきました。

飛鳥時代の文化は、仏教文化と国際色豊かな文化という、大きな2つの特徴があげられます。

最も有名なのは、聖徳太子が建立したとされる法隆寺で、これは現存する世界最古の木造建築といわれています。

法隆寺の金堂の柱の中央部がやや膨れているのは、ギリシャ建築の影響を受けているとも考えられていて、これは遠くギリシャからシルクロードを通って日本へ入ってきた文化とも考えられています(諸説あり)。

また、その法隆寺に収蔵され国宝に指定されている釈迦三尊像・百済観音像・玉虫厨子なども、飛鳥文化の代表作といえます。

飛鳥時代と古墳時代、その他の違い

古墳時代には「文字」がほとんど使われていませんでしたが、飛鳥時代からは漢字によって日本語が表記されるようになり、万葉集などが編纂されるようになります。

また宗教に関しても、古墳時代までに信仰されていた宗教は原始的なものでしたが、飛鳥時代に仏教が伝来して、飛鳥寺などの寺院も建造されました。

そして、古墳(墓)も飛鳥時代になり、大きく形を変えていきます。

飛鳥時代以前の権力者の墓は、単なる埋葬の場としてではなく、王権継承の儀式の場でもあったために、多くの副葬品や前方後円墳のような大型の墓が作られました。

飛鳥時代になると、大化の改新の一環としての「薄葬令」が出され、墓の規模が制限され、豪華な副葬品や殉死・殉葬等も禁止されました。

そしてその後、天皇や貴族たちの間で火葬が広まっていきますが、貧しい庶民たちは墓を作らずに自然の中に安置して消滅させる「風葬」で土に還ったとされています。

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