人が集まれば諍いが起こり、その仲裁は遠く古代から必要とされました。
今回は、古代から飛鳥時代にはどういう裁判が行われていたのかについて説明していきます。
飛鳥時代に制定された「大宝律令」
大宝律令とは、701年に制定された律令で、刑法にあたる6巻の「律」と、行政法・民法にあたる11巻の「令」で構成されています。
この選定に関わったのは、藤原不比等・刑部親王らで、以前から積み重ねられていたものが「大宝律令」として実施されました。
国内で起きた「乙巳の変」「壬申の乱」などの内乱が度重なったことや、白村江の戦いの敗戦によって、国内を中央集権国家としてまとめることが必要となり、大宝律令という本格的な法律が必要とされたのです。
「律」で定められた刑罰は、「笞(ち)」「杖(じょう)」が鞭や棒で討つ刑罰、「徒(ず)」が懲役、「流(る)」が島流し、そして「死(し)」が死刑のことをさします。
刑を確定するには裁判が必要となり、中央政府の八省の「刑部省」が裁判・刑罰執行を担当しました。
古代から行われていた裁判「盟神探湯」とは
「盟神探湯」は「くがたち・くがだち・くかたち」と読み、日本で古代から行われていた神明裁判のことです。
日本で農耕社会が形成されて以降様々な儀礼が生まれ、人々は全てのものに神が宿っているとしていました。
そしてその神を信仰していたゆえに、人を裁くのも紛争を解決するのも神であるとされたのです。
それに用いられたのが「盟神探湯」で、対象者に神に誓わせた後、探湯瓮(くかへ)という釜で沸かせた熱湯に手を入れさせて、その手がただれたらその人の主張は偽りであるとされたのです。
また毒蛇を壺に入れて、正しい者は無事だという様式もあったとされています。
「盟神探湯」は日本書紀の中にも記載があり、しばらくの間はこの方法で裁判が行われていたとされていますが、その後室町時代までこの方法の記録はなく、その間水面下で続いていたのかどうかは不明です。
「盟神探湯」という裁判、その後
大宝律令の「律」による裁判は、天皇の許可なしでは行えないという丁寧なやり方であったとされています。
奈良時代までは極刑はしばしば行われていましたが、平安時代になると仏教の影響もあり刑罰は軽くなっていきます。
810年から1156年に保元の乱で、源為義らが斬られるまで、300年以上朝廷では極刑が行われていなかったともされているのです。
ちなみに、このように長期間極刑が行われなかった国は、他にほとんどありませんでした。
裁判としての「盟神探湯」の歴史が終わった後この言葉は、神前に拝する際に身を清めるために沸かした湯の意味に変わっていきました。
釜で沸かした湯を巫女が、笹の葉や貨幣串で参拝者にかける「湯立」などの神事は、後者の「盟神探湯」に由来するものとされています。