飛鳥時代に栄えた仏教文化、そこには聖徳太子の功績が大きく関わっています。
今回は、飛鳥時代の仏教文化と聖徳太子との深い関りについてご説明していきます。
推古天皇即位と、摂政・厩戸皇子(聖徳太子)の誕生
第33代推古天皇が即位した背景には、天皇家の外戚である蘇我氏と物部氏との争いがありました。
仏教を容認して広めたいと考える蘇我氏と、仏教を排除しようとする物部氏との争いは蘇我氏の勝利に終わり、物部氏は滅びました。
その争いの過程で、第32代崇峻天皇暗殺という事件が起こり、次期天皇を誰にするかという問題が起こったのです。
当時天皇の候補者は、押坂彦人大兄皇子・竹田皇子・厩戸皇子の3人とされていましたが、押坂彦人大兄皇子が蘇我氏と血縁関係がないことから外され、残る二人が次期候補として残りました。
その二人がまだ年少だったことから、竹田皇子の母である推古天皇を中継ぎの天皇として即位させることになりましたが、推古天皇の即位前後に竹田皇子は若くして逝去してしまいます。
中継ぎとして即位した推古天皇でしたが、彼女はとても聡明で優秀な人物で、厩戸皇子と蘇我馬子ともに様々な政治的改革を行いました。
厩戸皇子(聖徳太子)も歴史に数々の逸話を残す優秀な人物で、推古天皇の後任の天皇と目されていました。
厩戸皇子を摂政に任命したのは、厩戸皇子の能力と、推古天皇の下で帝王学を学ぶという意味合いがあったものと思われます。
仏教を日本に広めたのは聖徳太子
仏教推進派の蘇我氏が仏教排斥派の物部氏を滅ぼしたのですが、実際に仏教を広めたのは蘇我馬子ではなく、主に聖徳太子だったとされています。
四天王寺を始め数々の寺を建立し、聖徳太子らが制定した17条憲法の内容も仏教の教えから来るものでした。
聖徳太子は、高句麗から渡来した僧・恵慈(えじ)を師として仏教を学び、「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」という仏教の経典の注釈書を記しました。
そして、聖徳太子は仏教の教えを人々に学ばせるために、斑鳩宮に仏教の学問所を作り仏教の布教に尽力しました。
聖徳太子は17条憲法を制定した後、政治的活動よりも仏教の勉強や仏教の布教に力を入れていたとされており、そのために住まいも斑鳩に移したともいわれています。
飛鳥時代に栄えた仏教文化
こうして仏教の布教に尽力した聖徳太子でしたが、志半ばにして早逝してしまいます。
しかし聖徳太子の没後も、日本に戻った遣隋使たちによって仏教の教えは広められ、塾を開いて仏教や儒教の教えを広め、後に蘇我入鹿や中大兄皇子そして中臣鎌足などもここで仏教や儒教を学んだと伝えられています。
このように、飛鳥時代に仏教文化が花開いたのは、聖徳太子によって仏教が日本に広がったことが大きな要因となりました。
日本の国際化を目指して遣隋使が派遣されたのも聖徳太子の尽力によるもので、その結果大陸の文化と仏教が日本に流入して、仏教文化である飛鳥文化が成立したのです。
聖徳太子は仏教の布教のために、自らも多くの寺院を建立しました。
その中でも有名なのは「聖徳太子建立七大寺」と呼ばれ、この7つの寺には現在でも飛鳥文化(仏教文化)の遺産として国宝や重要文化財が多数残されています。