古墳時代から飛鳥時代の葬儀の形とは?

古代から飛鳥時代の日本では、どういう葬儀が行われていたのでしょうか?

今回は、現在とは全く違う古代そして飛鳥時代の葬儀の形をご紹介していきます。

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縄文・弥生、そして古墳時代の葬儀の形

縄文時代には「屈葬」という、体を曲げた方法で埋葬が行われていました。

屈葬を行っていたのは、墓穴を掘る労力を少なくするためや、死者の霊が浮遊しないようにするためなどの理由が考えられています。

弥生時代になると、伸展葬(体を伸ばして埋葬する方法)が行われるようになります。

また、この頃から稲作が伝来して定住化が進んだことで、土葬による墓が見られるようになりました。

古墳時代になると、支配階級の埋葬方法に大きな変化がみられるようになります。

これがいわゆる「古墳」と呼ばれるもので、特に古墳時代の前半には大型の前方後円墳が多数登場し、そのほとんどは一人を埋葬するためだけに作られたものでした。

石室と呼ばれる部屋に棺が納められ、副葬品として棺の中に宝器・太刀・鉾など様々なものが一緒に埋葬されました。

しかし庶民の埋葬は、古墳時代とほぼ変わらない形で行われていたと考えられています。

飛鳥時代の葬儀

飛鳥時代の初期は古墳時代の末期と年代が被っていることから、飛鳥時代初頭はまだ古墳が造られていました。

618年に聖徳太子も自分の墓を建てたという記録も残っており、その墓も古墳でした。

しかし646年に「薄葬令」が発布され、古墳の規模や建造に関わる人員などが細かく規制されることになり、古墳時代の初期のような大型の古墳は作られなくなりました。

701年に大宝律令が制定され、それ以降は三位以上の身分を持つ者だけに古墳の造営が許可されるようになり、庶民の埋葬に関しても規定が定められます。

庶民は一定の範囲内での葬所を利用することが決められて、複数の場所に散埋することが許されなくなりました。

飛鳥時代に日本で初めての火葬が行われた

また、日本で初めて火葬が行われたのはこの飛鳥時代です。

700年に道昭という僧が火葬にされたという記録が残っており、また持統天皇も702年に火葬にされています。

しかし火葬は一般的には広まっておらず、特権階級の間でのみ行われていたとされています。

その理由としては、火葬に必要な薪が当時は非常に高価だったことがあげられます。

平安時代後期からは薪ではなく藁を使う方法が一般化していきますが、遺体を骨になるまで燃やし尽くすだけの大量の薪を用意できるのは富裕層だけでした。

当時は天皇の遺体に点火するのは皇位の貴族の役割で、その後は貴族と僧が交代で灰になるまで火の番をしていたと伝わっています。

ちなみに現代でも天皇家は土葬というイメージが強いですが、持統天皇以来多数の天皇が火葬で見送られたとされています。

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