飛鳥時代を動かした蘇我氏・蘇我馬子はどんな人物?

飛鳥時代、推古天皇の下で聖徳太子と共に様々な改革を行った蘇我馬子。

今回は飛鳥時代の蘇我氏、そして蘇我馬子についてご紹介していきます。

スポンサーリンク
asuka-jidai.comレクタングル大?

有力豪族・蘇我氏と蘇我馬子

蘇我馬子は飛鳥時代の政治家で、父である父である蘇我稲目のあとを継いで大臣の地位につき、仏教を排除しようとする物部氏を滅ぼしました。

その後、蘇我馬子は聖徳太子と共に、仏教の振興に寄与し、日本初の本格的な寺院である法興寺(飛鳥寺)を建立します。

また、推古天皇の下、聖徳太子と互いに協力し合って冠位十二階を定め、17条の憲法を制定するなど、律令国家の成立に大きく寄与しました。

しかし、蘇我馬子は聖徳太子が亡くなった後再び権力を握り専横が目立つようになったとされています。

その後、蘇我馬子の息子・蝦夷と孫の入鹿は、中大兄皇子と中臣鎌足によって滅され(乙巳の変)、蘇我氏は没落していきます。

蘇我馬子はどんな人物だったのか

聖徳太子の没後の蘇我馬子は、天皇すらないがしろにして権力を握ったと、聖徳太子とは正反対の評価を受けています。

日本史の教科書には、「冠位十二階」「17条憲法」は聖徳太子の功績とされる傾向がありますが、実際には聖徳太子と蘇我馬子が協力して作ったものとされているのです。

豪族の力を押さえつつ天皇を中心とする政治体制を作ろうとする聖徳太子と、蘇我氏の権力を拡大したいと画策する蘇我馬子という図式が定着したのは、「日本書紀」などによる記述によるところが大きいとされており、近年では蘇我馬子の評価が見直されるようになってきました。

推古天皇から聖徳太子が国政を任されたのは20歳ごろとされており、聖徳太子がいかに優秀な人物であったとしても、力を持った豪族たちを束ねることは難しかったと思われます。

そしてその頃の蘇我馬子は40代で経験豊富、蘇我馬子の協力なしでは推古天皇の政策を実現することはできなかったのです。

推古天皇と聖徳太子・蘇我馬子

最近の研究では、聖徳太子と蘇我馬子はお互いに協力して政策を実現していき、晩年まで良好な関係にあったと推測されています。

そして推古天皇も蘇我馬子の働きぶりを高く評価しており、「馬に例えるなら日向国の名馬、太刀に例えるなら呉国の名刀」と言ったと伝えられているのです。

この推古天皇の蘇我馬子に対する礼賛は、蘇我馬子が晩年に差し掛かった頃のことだとされており、もし蘇我馬子が天皇に対して横暴だったり国益を害する人物であったならば、このような評価はされないと思われます。

日本書紀は蘇我氏を倒した中臣鎌足(藤原鎌足)の子孫の藤原氏が編纂したものであり、そのために蘇我氏を貶める傾向にあるという説が現在では有力視されています。

推古天皇の時代に冠位十二階・17条憲法そして遣隋使の派遣といった政治・外交における大きな実績を残したのは、聖徳太子と蘇我馬子の共同の功績だと推測されているのです。

蘇我馬子の墓は日本最大級の方墳である石舞台古墳とされており、王墓にも劣らない規模の墓に埋葬された蘇我馬子は、やはり優秀な人物であったのではないでしょうか。

スポンサーリンク
asuka-jidai.comレクタングル大?

asuka-jidai.comレクタングル大?

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする