飛鳥時代の遣唐使、その目的と廃止の理由とは?

遣唐使は、飛鳥時代から平安時代にかけて、日本から唐(中国)へ派遣された使節団のことをいいます。

今回は、その遣唐使の目的、そして廃止された理由についてご説明していきます。

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遣唐使の目的とは

飛鳥時代の前期、まだ中国が隋だった時代に、遣隋使が派遣されて、様々な事件があったものの隋との関係が築かれていきました。

その隋が618年に滅び唐という国になりましたが、日本はその後も交流を続けました。

それを遣唐使といい、目的は遣隋使と同じく、中国の文化を吸収すること、そして中国に留学して様々なことを学んでくるというものです。

遣唐使は、途中中断した時期がありましたが、630年(飛鳥時代)から894年(平安時代)まで約350年もの間続き、12回から20回も派遣されたのです。

回数にずれがあるのは、出航せずに終わった回・唐からの使者を送り届けた場合をカウントするかしないかによるものです。

その当時、国が遣唐使に力を入れていたこともあり、多い時は651人もの大所帯だったと伝えられています。

その内訳は、主役の大使・副使、役人、船員や医師などの乗組員、そして留学する学生や僧侶でした。

危険だった航路

まず日本各地から博多湾へ移動し、そこから唐に向けて出航しました。

遣唐使初期の飛鳥時代には、壱岐・対馬経由で朝鮮半島西海岸沿いを進み、渤海湾から山東半島に向かうというルートをとっていたと考えられています。

しかし、白村江の戦いで新羅との国交が断絶したために、九州南端から種子島・屋久島・徳之島・沖縄・久米島・石垣島を経由して東シナ海を渡り揚子江を目指すルートに変わったとされています。

しかし当時の航海術と船では、海を渡って唐へ行くことは大変危険なことでした。

往路復路を問わず難破することも多々あり、空海と最澄が渡航した時も、4隻中2隻しかたどり着けなかったのです。

唐に渡って病気になった場合、現地に置き去りにされた例もありますが、これもそうせざるを得なかったのではないかと推測されます。

遣唐使が廃止された理由

実は、遣唐使が廃止されたはっきりとした理由は、よくわかっていません。

教科書では894年に遣唐使廃止と記されていますが、日本で遣唐使派遣を計画していてその計画が中止になったのが894年でこれ以降は遣唐使を行わないとしたわけではなかったのです。

その時に廃止を提案したのが菅原道真でしたが、その後も菅原道真は大使としての任は解かれていませんでした。

ですので、894年の時点では遣唐使というもの自体は廃止になってなかった可能性があるのです。

菅原道真が遣唐使を中止した理由として、唐で内乱が起こっていて情勢が危険だったことや、過去の派遣で航海中に命を落とす可能性が非常に高いので、それによって優秀な人材を失うわけにはいかないということがあげられています。

大使であった菅原道真は、901年に藤原時平との政治的争いに敗れて大宰府に左遷されてしまい、同時に遣唐使の大使という人も解かれてしまいました。

そしてその後、遣唐使の大使として任命される者がいなかった事から、遣唐使は自然消滅の形になってしまったのです。

遣唐使が廃止されたころの日本は、これまで唐から持ち込んだ文化と日本の文化が融合した日本独自の文化が芽生えてきたころでした。

これは、危険を冒してまで遣唐使を派遣する意義がなくなってきたということだと考えられています。

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