飛鳥時代に活躍した第38代天智天皇は、天皇即位以前の中大兄皇子という名でも良く知られています。
今回は天智天皇の生涯と、その功績をご紹介していきます。
天智天皇(中大兄皇子)と乙巳の変
飛鳥時代初期、推古天皇の下で政治手腕を発揮していた聖徳太子が亡くなると、築いてきた天皇中心の政治が蘇我氏によって崩れ始めていきました。
聖徳太子と蘇我馬子の二人が推古天皇の政治の手助けをしていたため、蘇我馬子の息子である蘇我蝦夷と孫の蘇我入鹿が「大臣」という高い地位について権力を握ったのです。
蘇我氏の勢いはますます盛んになり、舒明天皇をないがしろにするなど朝廷での専横ははなはだしいものとなって、その権勢は天皇を凌ぐほどになりました。
その蘇我氏の行動に不満を募らせ激怒したのが、舒明天皇の子である中大兄皇子(後の天智天皇)でした。
中大兄皇子は中臣鎌足と慎重に計画を練り、645年に皇居の儀式で蘇我入鹿を殺害し、蘇我入鹿を自殺に追い込んで蘇我氏を滅ぼしました。
以前は645年・大化の改新とされていましたが、現在では645年に蘇我氏を滅ぼし(乙巳の変)、その後に大化の改新という大きな政治改革が行われたとされています。
中大兄皇子らが行った大化の改新
中大兄皇子らは、中国(唐)の政治の制度を取り入れて、様々な改革を行いました。
この時に日本で初めての元号「大化」と使ったことから、この一連の政治改革を「大化の改新」と呼ぶようにになったのです。
中大兄皇子は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたことから、国土防衛の必要性を感じて水城や防人を設置、また冠位を二十六階へ拡大するなど、行政機構の整備も行いました。
中大兄皇子は孝徳天皇を即位させて、自らは実権を握り「改新の詔」を発令することになります。
改新の詔とは「公地公民制」「国郡制度」「班田収授法」「租庸調(税制)」の4つでした。
そしてその後、中大兄皇子は668年に京を近江大津宮に遷して、38代天智天皇として即位することになります。
飛鳥時代の日本に大きな改革をもたらした天智天皇
天智天皇が即位したのは668年、そして崩御したのは671年で、天皇でいた時期はとても短いものでしたが、即位以前の中大兄皇子としての実績はとても大きなものでした。
天智天皇といえばもう一つ忘れてはならないのが、小倉百人一首の第一番の歌の作者ということです。
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」
現代語訳(直訳)すると、秋の田に作られた小屋にいると、その庵の網目が粗いので、私の袖は夜露に濡れてしまう、となっています。
しかし「この夜露は農民たちをも冷たく濡らしているのだろう」と、民を思う優しい心が表れているとも解釈され、天智天皇が民を思う優れた天皇であるとも伝えられています。
また、天智天皇の即位期間が短かった(即位が遅れた)理由については様々な説があって、飛鳥時代の政治史の大きな謎の一つとなっています。