税とは国の政治に欠かせない収入であり、国民が課せられた義務ですが、その「税制」はいつからあったのでしょうか?
今回は飛鳥時代以前にもあったとされる税制、そして飛鳥時代の税のシステムについてご説明していきます。
飛鳥時代以前の税制
日本の税に関する最古の記録は、魏志倭人伝にあります。
魏志倭人伝とは、中国の歴史書である三国志の中の「魏書」第30巻・烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称で、当時日本列島にいた民族(日本人)のことについて書かれた書物です。
そこには、「女王である卑弥呼がが支配する邪馬台国では、農作物の一部や織物を貢物として納められていた」とあり、これが日本における税の始まりとされています。
弥生時代には「えつき」と呼ばれる、労役や兵役そして絹や綿などを納める税がありました。
その内容は、「たちから・穀物を納める物納」「みつぎ・穀物以外の物税」「えだち・労役」などです。
大化の改新で定められた税制
646年に改新の詔が発布され、地方の豪族がそれぞれ支配していた土地や民が全て国家のものとなりました。
そして班田収授法によって戸籍と計帳が作成されて、土地が公民に貸し与えられるようになりました。
税金は国家の安定のための大事な収入源であることから、戸籍を登録して身分を掌握することが大切になってきたのです。
そこで「租庸調」という税制が制定されました。
「祖」は与えられた耕作面積に対し、一律に定められた稲を納める税のことで、収穫寮のおよそ3%だったとされています。
「庸」は男性に対する税で主に労役を指し、実際には労役の代わりに布や綿、または塩などが納められることもありました。
「調」は各地の特産物(染色に使う材料・神など)を自分で運んで納めるというものです。
その他に、雑徭(ぞうよう)といって、各地の土木工事などをする税(労役)もありました。
苦しかった農民の生活
効果的に税を納めさせる方法として租庸調は有効ではありましたが、その税負担は農民にはかなり重く、生活は貧しく苦しい生活だったと伝えられています。
山上憶良が詠んだ貧窮問答歌では、この時代の農民の苦しい生活の様子が窺われます。
「人並みに田で働いているが、服はボロボロ家は曲がっていて地面には藁を直接敷いている。父母も妻子も嘆き悲しんでいる。かまどからは煙は出ず、こしき(米を蒸す道具)には蜘蛛の巣が張り、飯を炊くことも忘れている。それでも鞭を持った里長が税を取り立てようとしている」
要約すると貧窮問答歌にはこのような農民の暮らしが綴られており、「世の中で生きることはこんなにつらいのか」もされていますと。
このような辛い暮らしが続くために、多数の農民が口分田を捨てていくようになり、徐々に荒れ果てた田畑が各地に増えていきました。
その後人口増加のために口分田が不足してきたために、法律を変えて開墾した3代にわたって田を所有できるようになっていきます(723年制定の三世一身の法)。
更に743年には、期限なく所有し続けることができる「墾田永年私財法」が制定され、これによって公地公民の原則が廃止されることになりました。