飛鳥時代に日本初の「律令制」が誕生し、天皇を中心とした統一国家が樹立されました。
この律令政治の「律」と「令」とは何なのか、今回はそれを詳しく説明していきます。
律令国家とは?
律令国家とは、国の制度の基本として定められた「律」と「令」に基づいて、それによって治められた国のことをいいます。
飛鳥時代の日本では、中国(隋・唐)から律令を取り入れて、それを日本の国に合うように修正しながら日本独自のものを作り上げました。
最も古い日本の律令は668年に完成した「近江令」とされていますが、これは実際には存在しなかったという説もあります。
また689年に施行された「飛鳥浄御原令」も、律を伴っておらず、不完全なものでした。
そして701年に刑部親王・藤原不比等らによって作られた「大宝律令」が日本史上初めて「律」「令」が揃った本格的な律令とされています。
ちなみに日本の律令国家は、701年に大宝律令が制定そして施行されてから、10世紀後半までの約200年続きました。
「律」とは、現在で言う刑法
大宝律令では、6巻で構成する律はほぼ唐の律を導入しており、11巻の令は唐の令を基にして日本の社会に則するようにアレンジされたものとなっています。
律の刑罰は8段階となっており、罪が軽い順にご紹介します。
・「笞(ち)」刑の重さによって5段階に分けた、細い竹の鞭で背や尻を叩く刑
・「杖(じょう)」刑の重さによって5段階に分けた、太い竹や鞭で背や尻を叩く刑
・「徒(ず)」5段階に分けた懲役
・「流(る)」罪の重さで近場から遠島までの島流し
・「死(し)」絞首刑と斬首刑の二種類に分けた死刑。殺人と強盗の重罪には斬首が用いられた
この刑の決定は、天皇を頂点とした国家体制の中の八省のうちの一つ、刑部省(ぎょうぶ)が担当しました。
「令」は、今でいう民法・行政法・訴訟法など
行政面では天皇を頂点として二官八省の官僚体制が制定され、その下にも細かい部署が設置されました。
地方行政も、国郡里制という単位が決められ、地方においても中央の政府が力を握る構造を保っていました。
また「租庸調」という細かい税制が定められ、国家を安定的に維持する基礎を作りました。
645年の大化の改新で、人民も土地も天皇のものであるとされる公地公民制など、律令国家を創設するための方針が示されました。
そしてこの時に示された方針を、その後50年以上かけて実現したのが大宝律令制定、そして律令国家の誕生でした。
大宝律令編纂の中心人物は刑部親王そして藤原不比等で、この大宝律令によって日本は天皇を中心とする中央集権国家となるのです。
ちなみに、藤原不比等らが中心となって757年に「養老律令」が制定されましたが、内容は大宝律令と大きく変わらなかったとされています。