飛鳥時代、聖徳太子が当時の中国「隋」に遣わせた「遣隋使」、そこには小野妹子という外交官が存在しました。
今回は飛鳥時代に行われた「遣隋使」と、使者となった小野妹子についてご紹介していきます。
遣隋使派遣の目的と背景
日本と中国の外交は、日本が「倭」と呼ばれていた5世紀にはすでに行われていましたが、しばらくの間途絶えていました。
そして推古天皇が即位し飛鳥時代になった頃に、大和朝廷は新羅への遠征を計画し、それにあたって強大な力を持つ隋と親交を結ぼうとして遣隋使を派遣することにしたのです。
隋の歴史書「隋書」によると、600年に隋の文帝に倭国が使者を送ったと記されていますが、この第一回遣隋使は失敗に終わってしまいました。
隋の文帝に拝謁した日本の使者が皇帝からの質問にまともな答えを出せず、日本は未開発の国だという印象を持たれて説教をされたということですが、この第一回遣隋使に関しては日本書紀などの日本の史料には残っていません。
しかしこの第一回遣隋使によって隋の政治や文化を持ち帰ることができ、聖徳太子や蘇我馬子が17条憲法や冠位十二階などの制度を整えることに貢献しました。
この事によって国家としての体裁を整えた日本は、608年に第二回目の遣隋使を派遣し、この時に大使に任命されたのが小野妹子でした。
小野妹子とはどんな人物?
小野妹子は、近江国志賀郡の小野村(現在の滋賀県大津市)の豪族で、5代目天皇である孝昭天皇の皇子を祖とする小野氏の出身といわれています。
天皇家の流れをくむ家柄の出身である小野妹子ですが、妹子が生まれたころには地位が落ちて、地方の豪族となっていました。
聖徳太子らが定めた冠位十二階は、氏姓制度で定められた家柄や身分ではなく、個人の才能を基準とした人材を登用するために設けられた制度で、それによって見出されたのが小野妹子でした。
小野妹子は、冠位十二階で一番上の「大徳」の位だったことから、とても優秀な人物だったと考えられます。
ちなみに小野妹子という名に「子」がついていることから女性名ではないかと思われがちですが、当時は「子」は男性の名につける文字でした。
古代中国の儒学者である「孔子」「孟子」などを参考につけられたとされ、「子」は平安時代以降には女性の名前に使われるようになったとされています。
小野妹子の外交官としての功績
607年、聖徳太子に選ばれて使者となった小野妹子は隋に渡ります(第二回遣隋使)。
技術や文化そして学問を学ぶための使節ということで、小野妹子は外交官と留学生という二つの役割を持っていたとされています。
小野妹子は隋との国交を開くためにしたためた聖徳太子の手紙を持って隋に渡り、隋の皇帝である煬帝と対面しました。
しかしその手紙に書かれた「日出ずる処(東の国・倭)の天子が、日没する処(西の国・隋)に手紙を書く云々」とされていたため、煬帝は激怒、そして煬帝からの返事を持って小野妹子は帰国します。
小野妹子は煬帝からの返信の手紙を帰路の途中に紛失してしまい、流刑に処されそうになりますが、隋へ渡ったという功績を認められて許されました。
倭国に対して煬帝は激怒したものの、裴世清(はいせいせい)という使者を小野妹子に同行させました。
その理由として、隋が高句麗と戦っていることから、倭の国を敵に回すのは得策ではないと判断したのではないかと思われ、結局その後日本と隋とは正式な外交を結ぶこととなりました。
そして翌年に第三回遣隋使が行われ、小野妹子をはじめ数名の留学生が同行し、20年以上も中国で学問や仏教を学び、帰国後学問や政治改革に貢献しました。
晩年に小野妹子は出家し、聖徳太子が創建した六角堂という寺に入ったとされていますが、詳しいことはわかっていません。