飛鳥時代は、都の場所を遷す「遷都」が何度も行われた時期でした。
今回は何故何度も遷都が行われたのか、また遷都が行われた場所についてご紹介してきます。
都を遷す理由とは
古来、天皇の住居の「宮」は一代限りで移転するのが習慣となっていました。
なぜ頻繁に遷都を繰り返すのかに関してはいくつもの説がありますが、当時「死」は穢れであったという説が有力とされています。
皇族や権力者が逝去する際には、その怨念が生きた人間に祟りをなすとされ、これを手厚く祀って祟りを鎮めるのですが、それだけではなく怨霊の居場所から逃げるのが最良だとされたのです。
これは、菅原道真の祟りと、それに始まった天神信仰が怨霊信仰となったという説に基づきます。
「死」に対する穢れに似た感覚は現代にも受け継がれていて、禊(みそぎ)や祓い(はらい)を行っても穢れを拭いきれないことから、飛鳥の時代には何度も遷都を繰り返したと考えられます。
6カ所の遷都を行った飛鳥時代
聖徳太子が摂政を務めた推古天皇以降の飛鳥時代は、ほとんどの天皇は飛鳥地方に宮を置きました。
飛鳥時代は推古天皇即位から始まったとされていますが、推古天皇の時代から「大王」という呼び名に代わって「天皇」という称号が使われるようになったとされています。
①皇極天皇・明日香板葺宮
②孝徳天皇・難波長柄豊崎宮
③斉明天皇・飛鳥宮
④天智天皇・近江大津宮
⑤天武天皇・明日香浄御原宮
⑥藤原京・持統天皇
飛鳥時代は、国内の近代化を目指して律令などを制定し、兵役や納税の基礎となる戸籍も作られました。
それは天皇を中心とする国家を作るためなのですが、もう一つ目的があったのではないかとされています。
それは、この時代に大陸の文化が流入して政治や文化に大きな影響を与え、仏教の思想が入ってきたことで人々の意識も変わってきていたのです。
これはまるで、明治維新前後に黒船とキリスト教が入ってきたころの日本と似ていて、朝廷はあらゆる手段を用いて日本を平定しようとしたのではないかという考察もなされています。
初めての本格的な宮都・藤原京
藤原京は690年に着工して、4年後に飛鳥浄御原宮から宮を遷した本格的な都です。
それまで天皇即位のたび、あるいは一代の天皇に数回の遷都が行われていましたが、この藤原京では三代の天皇(持統・文武・元明天皇)に続けて使用されました。
そしてこれが藤原京のこれまでにない大きな特徴だとされています。
そして藤原京完成から4年後の708年に元明天皇によって遷都の勅が下されて、710年には平城京に遷都されました。
藤原京の太極殿などの建物には、初めて大規模な瓦葺きが用いられており、その数は約200万枚以上と推定されています。
そして藤原京から平城京に遷都する際には、建築物の材料(屋根瓦・柱など)を再利用できるものを分解して運び、また組み立てたといわれています。
藤原京から平城京までは徒歩で5時間ほどの距離で、この大掛かりな物流を行うためには膨大な人手が必要だったことはいうまでもありません。